味方を犠牲にし国に貢献~軍事と法律で敵を倒し最後は道連れに:呉起

呉起(ごき)──四つの国を渡り、三度の大敗を知る男~出世と孤立の果てに

はじめに──「孫子」と並ぶ男がなぜ忘れられるのか

戦国時代の兵法家といえば、まず孫子が挙げられます。『孫子』の十三篇は、今も世界中で読まれています。けれど、孫子と並んで「孫呉」と称された男がいます。呉起(ごき)です。

呉起は、魯・魏・楚の三国を渡り歩き、どこでも軍を強くしました。魏では秦を圧倒し、河西の地を奪いました。楚では、国を改革し領土を広げました。にもかかわらず、呉起の名は、孫子ほど知られていません。

なぜか。それは、呉起が「嫌われた」からです。彼は有能でした。ですが、愛されませんでした。母の葬儀に帰らなかった。妻を殺した。そういう逸話が、呉起の評価を、今も曇らせています。

この記事は、呉起の生涯を物語で追います。そして、現代の転職・出世・組織の話に、置き換えます。呉起は、約二千四百年前の男です。けれど彼の悩みは、今の私たちの悩みでもあります。

第一章──衛の国に生まれて

呉起は、衛(えい)の出身です。

衛は、戦国七雄には数えられない小国です。都は濮陽(ぼくよう)。今の河南省のあたりです。衛は、春秋の時代には大国でした。けれど戦国の世に入ると、周辺の強国に挟まれ、次第に力を失っていました。

呉起は、そんな衛で生まれました。生年は、紀元前440年ごろと推測されます。

呉起の家は、裕福でした。けれど、家格は高くありませんでした。衛の朝廷では、家柄がものを言う。呉起は、どんなに才能があっても、上の席には座れない。それが、呉起の出発点でした。

呉起は、故郷を出ます。

「衛では、私は使われない。もっと広い場所へ行く」

そう言い残して、呉起は旅立ちました。これは、現代で言えば、地方から都会へ出る。中小企業から大企業へ移る。あるいは、業界を変える。呉起は、約二千四百年前に、それを選びました。

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第二章──魯で名を上げる

呉起が向かったのは、魯(ろ)でした。

魯は、山東半島の南に位置する国です。孔子の生まれた国として知られています。けれど軍事では、強い国ではありませんでした。

呉起は魯に仕えます。そして才能を認められます。

時は、紀元前412年ごろ。斉が魯を攻めました。魯の朝廷は、動揺しました。

「誰か、斉を止められる者はおらぬか」

そこで、呉起の名が挙がりました。

「呉起がおります。あの男は、兵法に通じております」

けれど、一人の家臣が言いました。

「待ってください。呉起の妻は、斉の出身です。斉を攻めるとなれば、呉起は、妻を通じて斉に内通するかもしれません」

魯の朝廷は、ざわめきました。

呉起は、その言葉を聞きました。そして、妻を殺しました。

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第三章──妻を殺したという逸話

これが、呉起の最も有名な逸話です。

呉起は魯のために、斉の出身である妻を殺した。そう伝えられています。

なぜ、そこまでしたのか。呉起は、魯で出世したかった。けれど、妻が斉の出身である限り、魯の朝廷は呉起を疑い続ける。だから、疑いの種を消した。

これは、残酷な話です。現代の感覚では、理解できません。けれど、戦国時代の武将にとって、国への忠誠は、家族よりも重いものでした。呉起は、その忠誠を、極端な形で示しました。

けれど、この逸話には、別の見方もあります。呉起は、本当に妻を殺したのか。記録は一つではありません。『史記』には、そう書かれています。

けれど、『韓非子』には、少し違う形で書かれています。呉起は、妻に「織物を織れ」と命じた。妻が、指示通りに織らなかった。だから、妻を追い出した。そういう話です。つまり、妻を殺したのではなく、離縁したという記録もある。

どちらが本当か、分かりません。けれど、一つ言えることがあります。呉起は、自分の目的のために家族を犠牲にした、と伝えられた。それだけのことを彼はした。そう記録される男だった、ということです。

第四章──魏へ渡る

呉起は、魯で功を立てました。斉を退けました。けれど、魯に長くはいられませんでした。

魯の朝廷は、呉起を恐れました。有能すぎる。冷酷すぎる。そういう男はいつか、自分たちに向く。だから呉起は、魯を追われました。

呉起が向かったのは、魏(ぎ)です。

魏は、戦国七雄の一つ。都は安邑(あんゆう)。初代の君主は、文侯(ぶんこう)でした。文侯は、人材を求める王でした。呉起の名を聞いていました。

「呉起よ。お前の話は聞いている。魯では、妻を殺したそうだな」

文侯が問います。

呉起は答えました。

「私は、国に仕える者です。国が私を疑うなら、疑いの種を消す。それが私のやり方です」

文侯は、しばらく黙りました。そして言いました。

「お前は、冷酷な男だ。けれど魏には、冷酷な男が必要だ。秦が強くなっている」

こうして呉起は、魏に仕えます。

第五章──河西の守り

呉起は魏で、その真価を発揮します。

魏の西には、秦がありました。秦は、後に中国を統一する国です。この時代、すでに力をつけていました。その秦と魏は、国境を接していました。国境の地は、河西と呼ばれていました。

呉起は、河西の守りを任されます。

呉起はここで、軍を改革します。彼は、兵の訓練を徹底しました。そして、兵と、同じ飯を食いました。同じ寝床で、寝ました。兵が傷つけば、自分の口で膿を吸いました。

兵たちは、呉起を慕いました。

「呉起将軍は、私たちと同じ飯を食う。同じ床で寝る。こんな将軍はいない」

呉起の軍は、強くなりました。秦と七十六戦して六十四勝、残りは引き分け。そう伝えられています。呉起は、河西の地を魏のものにしました。

これは、現代で言えばこうです。新しい部署に配属された。メンバーと同じ現場に立つ。同じ苦労を共有する。そうすると、チームが強くなる。呉起はそれを、約二千四百年前にやっていました。

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第六章──魏を追われる

けれど呉起は魏でも、長くはいられませんでした。

文侯が死にました。次の王は、武侯(ぶこう)です。武侯は、呉起を重くは用いませんでした。

ある日、武侯と呉起が、川を船で下っていました。武侯が言いました。

「なんと、険しい山河だ。これが魏の宝だ」

呉起は、答えました。

「王よ。国の宝は、山河ではありません。徳です。かつて三苗は、洞庭湖と彭蠡湖の険しさに頼り、徳を修めなかった。だから禹に滅ぼされた。夏の桀は、黄河と済水の険しさに頼り、徳を修めなかった。だから湯に滅ぼされた。殷の紂は、孟門の険しさに頼り、徳を修めなかった。だから武王に滅ぼされた。王よ。もし、徳を修めなければ、この船に乗っている者たちが、みな敵になります」

武侯は、うなずきました。

「よく言った」

けれど呉起の言葉は、魏の重臣たちの心を、刺しました。呉起は有能すぎる。そして、直言しすぎる。そういう男は嫌われる。

呉起は、魏を追われました。

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第七章──楚へ渡る

呉起が向かったのは、楚(そ)でした。

楚は、戦国七雄の一つ。都は郢(えい)。長江の中流域に、広大な領土を持つ国です。けれど楚は、改革が遅れていました。貴族が力を持ちすぎていた。王の権力が弱かった。

楚の王は、悼王(とうおう)でした。悼王は、改革を求めていました。楚を強くしたい。そのためには、古い貴族の力を削らなければならない。悼王は、呉起の名を知っていました。

「呉起よ。魏では、河西を守ったと聞く。楚で何ができる」

悼王が問います。

呉起は答えました。

「楚は広い。けれど弱い。なぜか。貴族が多すぎるからです。貴族は、土地を持ち、兵を持ち、王の命令を聞かない。これを削ります」

悼王はうなずきました。

「やれ」

こうして呉起は、楚で改革を始めます。

第八章──楚の改革と死

呉起の改革は、徹底していました。

まず、貴族の数を減らしました。三世以上功のない貴族は、爵位を失う。次に、貴族を辺境の地へ、移しました。都に集まらないようにするためです。そして、無駄な役人を削り、その金を兵に回しました。

楚は強くなりました。南は百越を平定しました。北は、陳や蔡を併合しました。秦や三晋(韓・趙・魏)も、楚を警戒しました。

けれど貴族たちは、呉起を憎みました。

時は、紀元前381年。悼王が死にました。

呉起は、悼王の葬儀の場にいました。貴族たちが、呉起を襲いました。呉起は逃げました。そして、悼王の遺体の上に伏せました。

貴族たちの矢が、呉起を射ました。そして悼王の遺体にも、矢が当たりました。

呉起は、死にました。けれど彼は、死に際に言ったと、伝えられています。

「私を殺した者たちは、王の遺体を傷つけた。これは死罪だ」

悼王の葬儀の後、遺体を傷つけた罪で、七十余家の貴族が処刑されました。呉起は死んでから、敵を滅ぼしました。

第九章──なぜ呉起は嫌われたのか

呉起はなぜ、嫌われたのか。

第一に、彼は冷酷でした。母の葬儀に帰らなかった。妻を殺した、と伝えられた。そういう男を、人は信じません。

第二に、彼は有能すぎました。魯では斉を退けた。魏では秦を圧倒した。楚では国を改革した。どこでも結果を出しました。けれど結果を出す男は、周りから恐れられます。

第三に、彼は直言しました。武侯に、徳の話をしました。それは正しい言葉でした。けれど正しい言葉は、時に人を傷つけます。

呉起は強い男でした。けれど、強いだけでは生き残れない。組織は強さだけでなく、和も求めます。呉起は、その和を欠いていました。

第十章──現代へのつながり

呉起の話は、約二千四百年前の話です。けれどこれは、今の私たちの話でもあります。

転職。キャリアチェンジ。新しい環境で、結果を出すこと。そして、結果を出した先で孤立すること。

呉起は、四つの国を渡りました。衛、魯、魏、楚。どこでも結果を出しました。けれどどこでも、長くはいられませんでした。なぜか。彼は結果を出したけれど、人を味方にしなかった。

現代で言えばこうです。新しい会社に入った。成果を出した。けれど、同僚と馴染めない。上司に直言しすぎる。気づけば孤立している。呉起はまさに、それをやりました。

彼は、自分の信念を貫きました。徳を重んじました。兵と同じ飯を食いました。それは立派なことです。ただ彼は、人を信じることを、知らなかった。そして、人から信じられることを、知らなかった。

結び──呉起からの教訓の学び

呉起の話から、何を学ぶか。

一つは、結果だけでは、生き残れないことです。呉起はどこでも、結果を出しました。けれど結果は、人を味方にしません。人を味方にするのは、結果ではなく信頼です。

二つは、正しい言葉が、常に受け入れられるとは、限らないことです。呉起の徳の話は、正しかった。

けれど魏の重臣たちは、それを快く思いませんでした。正しさは時に、人を遠ざけます。

三つは、場所を変えても、自分を変えなければ、同じことになることです。呉起は、衛を出て、魯へ行き、魏へ行き、楚へ行きました。けれどどこでも、同じ孤立を繰り返しました。場所ではなく、自分が問題だった。これは、現代の転職にも言えます。会社を変えても、同じ悩みを抱える。それは会社ではなく、自分が原因かもしれません。

呉起は有能でした。けれど、有能なだけでは足りませんでした。彼は最後に、悼王の遺体の上で死にました。死んでから、敵を滅ぼしました。それは、呉起の最後の戦術でした。

呉起の名は、孫子ほど知られていません。けれど彼の人生は、戦国時代の最も人間的な部分を、映しています。出世すること。孤立すること。そしてその両方が、一人の男の中にあったこと。

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-古代中国史物語