転勤や転職で出世した人材~故郷の交友関係の印象で大敗北:劇辛将軍

劇辛(げきしん)──趙から燕へ渡り~一戦で散った男

はじめに──先ず隗より始めよで実は採用されていた武将

戦国時代、趙には名将が、揃っていました。廉頗、藺相如、趙奢。その名前は、今も残っています。けれど趙には、もう一人武将がいました。劇辛(げきしん)です。

劇辛は、趙の出身です。趙で生まれ、趙で育ちました。けれど趙では、名前が残りませんでした。趙の武将の名前を並べる時、劇辛は出てきません。

劇辛は、趙を出ました。燕へ渡りました。燕は、趙より弱い国です。けれど劇辛は、燕で将軍になりました。そして、趙との戦で死にました。

なぜ劇辛は、趙を出たのか。なぜ、燕で将軍になったのか。なぜ、趙と戦って死んだのか。この記事は、その問いを物語で追います。

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第一章──趙の国に生まれて

劇辛は、趙(ちょう)の出身です。

趙は、戦国七雄の一つ。都は邯鄲(かんたん)。今の河北省のあたりです。趙は、武勇に優れた国でした。騎馬の戦いに強く、名将を多く輩出しました。廉頗も、藺相如も、趙の人物です。

劇辛は、そんな趙で生まれました。生年は、はっきりしません。ただ、彼が活動した時期から逆算すると、紀元前4世紀の終わりごろ、と推測されます。

趙に生まれながら、劇辛は、趙で出世しませんでした。理由は分かりません。けれど、一つの可能性があります。趙には、すでに名将が多すぎた。廉頗、藺相如、趙奢(ちょうしゃ)。彼らの陰で、劇辛は埋もれていた。だから趙を出た。

これは、現代にも通じます。大きな組織にいて、上が詰まっている。自分の才能が、評価されない。だから外へ出る。転職です。独立です。劇辛は、約二千三百年前に、それを選びました。

第二章──燕へ渡る

劇辛が向かったのは、燕(えん)でした。

燕は、戦国七雄の一つ。都は薊(けい)。今の北京のあたりです。燕は、七雄の中では、国力が弱い方でした。南の斉(せい)、西の趙、隣の強国に挟まれ、常に緊張を強いられていました。

だから燕は、人材を求めていました。他国から、有能な人物を招く。それが、燕の生き残る道でした。

劇辛は、燕に仕えます。そして、燕の王に認められます。

「劇辛よ。お前は趙から来たな。なぜ燕に来た」

燕の王が、問います。

劇辛は、答えました。

「趙には、名将が多すぎました。私は、趙では使われない。燕には、私を使う場所があると、聞きました」

王は、うなずきました。

「正直な男だ。趙の名将たちを、妬まないか」

「妬みます。けれど、妬んでも私は強くなれない。だから来ました」

これが、劇辛という男でした。自分の弱さを隠さない。

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第三章──燕での日々

劇辛は燕で、着実に立場を固めていきます。

燕の王は、劇辛を重く用いました。劇辛は、趙で培った知識と燕での経験を、合わせていきます。趙の騎馬戦術、燕の地理、両方を知る武将は、そう多くありません。

劇辛は、戦場で何度も功を立てました。特に、斉との国境での戦いで、その名を上げたと言われます。斉は、燕の南の強敵でした。劇辛はその斉を、何度も食い止めました。

「劇辛は、燕の盾だ」

そう、呼ばれるようになりました。

けれど劇辛は、満足していませんでした。彼は、もっと大きな功を、求めていました。趙から来た男として、燕で自分の価値を、証明したかった。その思いが、後の判断を狂わせます。

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第四章──龐煖という男

時は、紀元前3世紀の中ごろ。趙に、龐煖(ほうけん)という武将が、現れます。

龐煖は、趙の名将でした。廉頗と並び、ある時期には、趙の軍の総指揮を執った人物です。彼は、趙の国力が傾きかけた時代に、それでも趙を支え続けました。四国を率いて秦を攻めたこともあります。結果は振るわなかった。けれど、龐煖という名前は、当時の軍人なら、誰もが知っていました。

劇辛も、知っていました。

そして、劇辛は、思いました。龐煖はかつて、自分と同じ趙の人間だ。趙で、自分が使われなかった時代、龐煖はまだ無名だった。けれど今、龐煖は趙の柱になっている。

劇辛の胸に、何かが疼きました。嫉妬ではありません。もっと冷たいもの。このまま燕で、盾として終わっていいのか。趙を出た自分が、趙の名将と同じ舞台で戦ったら、どうなるのか。

その思いが後に、劇辛を死へと導きます。

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第五章──燕王の判断

燕の王が、劇辛に、問いました。

「趙を、攻めるか」

時は、紀元前243年ごろ。趙は、長平の戦い(紀元前260年)で、秦に大敗した後でした。四十万の兵を失い、国力は、大きく落ち込んでいました。だから、周辺の国は、趙を狙い始めていました。

燕も、その一つでした。燕王は劇辛に、趙攻めの総大将を命じようとしました。

「劇辛よ。お前は趙の出身だ。趙の軍の動きを、誰よりも知っている。お前が総大将だ」

劇辛は、しばらく黙っていました。

そして、答えました。

「王よ。私は行きます。けれど、一つだけ申し上げます。趙には龐煖がいます。私は、龐煖を見知っており容易いと思っていますが、甘く見てもいません」

王は、笑いました。

「龐煖か。老いた男だ。お前なら勝てる」

劇辛は、それ以上、何も言いませんでした。けれど、心の中で思っていました。王は龐煖を知らない。私も、龐煖の本当の力は知らない。けれど、趙で龐煖の名を聞き続けた私には、分かることがある。

この戦いは、楽ではないかもしれない。劇辛は実は、そう感じていました。

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第六章──劇辛の進言

劇辛は、燕の軍を率いることになります。

けれどその前に、彼は一つの進言をしました。燕の朝廷で、劇辛は言いました。

「趙を攻めるなら、慎重に。趙は長平で大敗した。けれど、趙の兵はまだ強い。特に、龐煖の軍は精鋭です。私はまず、国境の守りを固め、趙の動きを見てから、攻めるべきだと思います」

燕の朝廷は、ざわめきました。

「劇辛は、趙の出身だから、趙を恐れている」

そう、言う者もいました。

劇辛は、反論しませんでした。彼は知っていました。趙を恐れているのではない。趙を知っているのだ。知っているからこそ慎重になりたい。けれど、その慎重さは、臆病と受け取られる。

劇辛は結局、王の命に従い、趙へ兵を進めます。彼の進言は、採用されませんでした。これが、劇辛の最後の判断になります。

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第七章──一戦~そして

紀元前243年。燕の軍が、趙へ攻め込みます。

劇辛は、総大将として、軍を率いました。一方、趙の軍を率いたのは龐煖でした。

両軍は、国境でぶつかります。

劇辛は、趙の戦術を知っていました。趙の騎馬の動き、趙の陣形、趙の兵の気質。だから劇辛は、趙の裏をかこうとしました。趙の軍を誘い込み包囲する。それが、劇辛の作戦でした。

けれど龐煖は、それを見抜いていました。

龐煖は、劇辛の誘いに乗りませんでした。逆に、劇辛の軍の隙を、突きました。劇辛の軍は崩れます。劇辛は、必死に立て直そうとしました。けれど、龐煖の軍は強い。劇辛の軍は、総崩れになります。

劇辛は、戦場で死にました。

正確には劇辛は、この戦いで敗死したと、伝えられています。燕の軍は大敗しました。劇辛の死は、燕に大きな傷を残しました。

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第八章──なぜ劇辛は負けたのか

劇辛は、なぜ負けたのか。

単純に、龐煖が強かったからです。それは間違いありません。龐煖は、趙の名将でした。劇辛よりも、戦の経験が豊富でした。だから負けた。

けれど、それだけではありません。劇辛の敗因は、もっと深いところにあります。

第一に、劇辛は趙を知りすぎていました。趙の戦術を知っている。趙の兵の気質を知っている。だから劇辛は、趙を読めるという自負心があった。けれど龐煖は、その読みを、逆手に取りました。知っていることが仇になった。これはよくある話です。相手を知りすぎると、相手の変化に気づけなくなる。

第二に、劇辛は燕の王に急がされました。劇辛は、慎重にと言いました。けれど王は、攻めろと言いました。劇辛は従いました。自分の判断より、王の判断を優先した。これは、武将としての忠誠です。けれどその忠誠が、劇辛を死へと導きました。

第三に、劇辛は趙の出身でした。燕の朝廷には、劇辛を趙の人間として、疑う者がいました。劇辛は、その疑いを晴らしたかった。趙を攻めて勝って、自分は燕の人間だと、証明したかった。その焦りが、劇辛の判断を鈍らせました。

劇辛は、強い武将でした。けれど、強いだけでは勝てない。戦は、政治であり、心理であり、タイミングです。劇辛はその全てを、龐煖に読まれました。

第九章──劇辛の死が残したもの

劇辛が死んだ後、燕はどうなったか。

燕は、趙との戦いで大敗しました。劇辛の死は、燕の大きな損失でした。燕はその後、秦の圧力に苦しみます。紀元前222年、燕は秦に滅ぼされます。劇辛の死から、二十一年後です。

劇辛は、燕を救えませんでした。けれど、劇辛の生き方は残りました。趙から燕へ渡った男。新しい場所で、忠誠を尽くした男。そしてその忠誠を、最後まで貫いた男。

劇辛の名は、大きくは残りませんでした。けれど彼の人生は、戦国時代の最も人間的な部分を、映しているでしょう。国を選ぶこと。忠誠を示すこと。そしてその選択が、命を左右すること。

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第十章──現代に置き換える

劇辛の話は、約二千三百年前の話です。けれどこれは、今の私たちの話でもあります。

転職。キャリアチェンジ。新しい環境で、自分の価値を証明しようとすること。そしてその焦りが、判断を誤らせること。

劇辛は、燕で盾と呼ばれました。けれど彼は、盾で終わりたくなかった。もっと、大きな功を求めた。その思いは、人間として自然です。けれどその思いが、彼を死へと導きました。

私たちも同じです。今の場所で評価されない。だから動く。動いた先で、結果を急ぐ。

急いだ結果、判断を誤る。劇辛は、まさにそれをやりました。

けれど私は、劇辛を責めません。彼は、自分の限界を、実は知っていたのではないでしょうか。慎重にとも考えていたでしょう。王に従いました。従いながら、負ける可能性を感じていました。それでも行った。それが、劇辛の責任の取り方でした。

現代で言えば、こうです。上司が、無理な目標を掲げる。あなたは、無理だと思える。けれど反論できない。だからやる。結果失敗する。責任は、誰が取るのか。

劇辛の場合、責任は劇辛が取りました。命で取りました。これは重すぎます。けれど、戦国時代の武将の責任は、そういうものでした。

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結び──劇辛から学べること

劇辛の話から、何を学ぶか。

一つは、慎重さを臆病と、混同しないことです。劇辛の慎重さは、臆病ではありませんでした。趙を知っていたからこそ、慎重だった。それは、正しい判断でした。けれど周りは、それを臆病と見ました。

二つは、自分の場所を選ぶことです。劇辛は、趙を出ました。それは正しい選択でした。趙では埋もれる。燕では使われる。彼は、正しく動きました。動いた先で死にましたが、それは動いたことの失敗ではありません。動いた先の判断の失敗です。

三つは、知っていることが、常に武器ではないことです。劇辛は、趙を知っていました。けれどその知識が、龐煖に読まれました。知っていることは、時に相手に、自分の手の内を教えることになります。

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