法律の公益より国主心理を優先~裁きの罰は自らにも:商鞅の因果応報

商鞅という男は、なぜ秦を最強に変えたのか

はじめに ある男の孤独

紀元前四世紀。中国は、戦国の世にありました。

七つの国が、覇権を争っていました。斉、楚、燕、韓、趙、魏、そして秦。どの国も、生き残るために必死でした。

その中で一人の男が、西の果てへ向かっていました。

魏の国を出てきたのです。名を公孫鞅といいます。のちに、商鞅と呼ばれる男であります。ここから今回の物語は、始まるのです。

「お前は、どこへ行くのだ」

旅の途中で、商人が彼に尋ねました。

「秦へ」

「秦だと。あの西の辺境の国か。なぜそんなところへ」

商鞅は、静かに答えました。

「秦には、何もない。だから、私の学問が役に立つ」

商人は、首をかしげました。何もない国に行く。それが理解できませんでした。

ですが、商鞅にはわかっていました。整いすぎた国では、新しいことはできません。何もない国だからこそ、一から作れます。彼は、それを求めていました。

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第一章 魏で認められなかった男

商鞅は、もともと、衛の国の生まれでした。衛の公族の血を、引いていました。だから、公孫鞅と呼ばれたのです。

若い頃、彼は法学を学びました。李悝の法経を、読み込みました。尸佼に師事しました。そして、魏の宰相公叔痤に、仕えました。

公叔痤は、彼の才能を見抜いていました。

ある日、公叔痤は、魏の恵王に言いました。

「私の家来に、公孫鞅という若者がおります。この男は若いが、国を変える力があります。どうか、彼に国政を任せてください」

恵王は、笑いました。

「若造に国を任せろと。公叔痤よ、あなたも老いたな」

公叔痤は、なおも食い下がりました。

「ではせめて、お使いにならないのなら、殺してください。他国に渡れば、必ず魏の敵になります」

恵王は、ますます笑いました。

「殺せと。任せろと。どちらも馬鹿げている」

公叔痤は、家に帰ると、商鞅を呼びました。

「すまない。私は王に、お前を推した。だが王は、聞かなかった。そこで私は、王にお前を殺すように言った。王は、それも聞かなかった。だからお前は、逃げなさい。今すぐに」

商鞅は、動じませんでした。

「心配、いりません。王は、あなたの言葉を、信じなかった。私を推す言葉も、殺せという言葉も、同じ口から出た。だから王は、どちらも信じない。私を殺しには、来ません」

公叔痤は、彼を見ました。この男は、人の心を読んでいます。そう思いました。

そして、公叔痤は死にました。商鞅は、魏に残りました。ですが、恵王は彼を用いませんでした。

何年か、たちました。商鞅は、魏にいても、何もできないと悟りました。そして、西へ向かったのです。

第二章 秦の孝公に会う

秦の孝公は、若い君主でした。二十一歳で即位しました。

彼には、悩みがありました。秦は弱かったのです。中原の国々から、蛮族の国と呼ばれていました。諸侯の会盟にも、呼ばれませんでした。楚や魏から、領土を削られていました。

孝公は、国を強くしたかったのです。だから、人材を求めました。国を変える策を持つ者を探しました。

商鞅は、宦官の景監を通じて、孝公に会いました。

最初の面会。商鞅は、帝道を説きました。堯や舜のような、王道の政治を語りました。

孝公は、途中で居眠りをしました。

二度目の面会。商鞅は、王道を説きました。禹や湯のような、徳治を語りました。

孝公は、また、退屈そうでした。

三度目の面会。商鞅は、覇道を説きました。春秋の五覇のような、力の政治を語りました。

孝公は、身を乗り出しました。ですが、まだ、決めきれませんでした。

四度目の面会。商鞅は、強国術を説きました。法で民を縛り、富で国を満たし、兵で天下を制する。その具体的な策を語りました。

孝公は、膝を進めました。話が終わりませんでした。日が暮れても、灯りをともして、聞き続けました。

数日たって、景監が、商鞅に尋ねました。

「あなたは、帝道や王道を説いた。だが、王は聞かなかった。なぜ、最後に覇道を説いたのですか」

商鞅は、答えました。

「帝道は、百年、かかる。王道は、五十年かかる。孝公は、待てない。彼は、生きているうちに、秦が強くなるのを見たい。だから、覇道を説いた。国を十年で変える策を、説いた」

景監は、うなずきました。

「王は、あなたを用いる、と言った」

商鞅は、静かにうなずきました。長い旅でした。魏で捨てられ、秦で拾われました。彼はここで、自分の学問を、試す時が来たと、思いました。

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第三章 法は王の上にもある

孝公は商鞅に、変法を命じました。国を変える法を作れと、言いました。

ですが、秦の朝廷は、反対一色でした。

甘龍という、重臣が、言いました。

「古き法を、変えてはなりません。先王の定めた法を、守るべきです。民は、慣れた法に従います。新しい法は、混乱を生みます」

杜摯という、臣も言いました。

「利を求めて、法を変える。それは、国を危うくします。古きを守るこそ、安泰です」

商鞅は、立ち上がりました。

「甘龍、あなたは、世俗の言葉を言っている。凡人は、慣れた法に安んじる。学者は、聞いた知識にとどまる。この二つで、国を治すことはできない。三代、異なる、礼。五覇、異なる法。時が変われば、法も変わる。古きに従えば、秦は滅びる」

甘龍は、顔を赤くしました。

「法を変えれば、民は騒ぐ。王よ、どうかお考えください」

孝公は、商鞅を見ました。商鞅は、孝公を見ました。

「王よ。疑えば、事は成りません。行えば、必ず成ります。民は最初、法を憎む。だが、法が利を生めば、民は法を愛する。私に任せてください」

孝公は、決めました。

「商鞅に、任せる。誰も口を出すな」

朝廷は、静まり返りました。商鞅は、席に戻りました。彼の手は、震えていませんでした。この日から、秦の変法が始まりました。

第四章 木を南門から北門へ

新しい、法を布く前に。商鞅は、一つのことをしました。

都の市場の南門に、三丈の木を立てました。そして、布告を出しました。

「この木を、北門まで移した者には、十金を与える」

民は、ざわめきました。

「三丈の木を動かすだけで、十金。そんな話があるか」

誰も、動きませんでした。十金は、庶民には一生使っても、余る額でした。だから、信じられませんでした。役人が、民を試して罰する罠だと、思いました。

商鞅は、布告を変えました。

「五十金を与える」

一人の男が出ました。若い農夫でした。

「俺がやる」

彼は、木を担ぎ、北門まで歩きました。民が、後を追いました。役人が、金を数えました。五十金。男に渡されました。

市場は、静まり返りました。そして、ざわめきました。

商鞅は、言いました。

「私の言葉は、必ず守られる。法も同じだ。法に書かれたことは、必ず行われる」

この一日から、秦の民は、商鞅の言葉を信じるようになりました。法は、紙の上ではない。行われるものだと、知りました。

第五章 法は太子にも及ぶ

変法は、進みました。ですが、最初の年、民は法を、憎みました。都の市場では、不満が渦巻きました。数千の民が都に集まり、法の苛烈さを訴えました。

その中に、太子の犯した法違反が、ありました。

太子は、孝公の嫡子。のちの恵文王であります。彼は若く、法を軽んじました。そして法を犯しました。

朝廷は、凍りつきました。太子を罰する者など、いません。王の子を罰すれば、自分が罰されるからです。

商鞅は、言いました。

「法が、行われないのは、上にある者が、法を守らないからだ。太子を罰する。ただし太子は、王の継嗣。直接、刑を加えることはできない。ならば、太子を教導する者を罰する」

彼は、太子の傅を罰しました。公子虔を刑し、公孫賈を黥しました。師の顔に、入れ墨を入れました。

民は、震えました。太子の師でさえ、罰される。ならば、庶民はなおさら、法を守らねばなりません。

翌年、都の市場は、静かになりました。法を訴える声は、消えました。民は、法に従うことを覚えました。

そして、ある日。かつて法を訴えた民が、今度は法を讃えに来ました。

商鞅は、言いました。

「法を訴える者も、法を讃える者も同じだ。法は、私のものではない。国のものだ。私を讃える必要はない」

彼は、その者たちを辺境へ移しました。民はますます、法を畏れました。そして、法を信じました。

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第六章 約十年で秦は変わる

それから、約十年。秦は変わりました。

法は、整いました。爵は、功によって、与えられました。戦で首を取れば、爵が上がります。農で粟を多く納めれば、爵が上がります。貴族の子でも、功がなければ、爵はありません。奴隷の子でも、功があれば、爵を得ます。

民は、戦に励みました。農に励みました。国は富み、兵は強くなりました。

『史記』は、この時期をこう記しています。

「道に落ちたる物を、拾う者なし。山に、盗賊なし。家に人は足り、人々は勇を競う」

道に物が落ちていても、誰も拾いません。拾えば、罪になるからです。山には、盗賊がいません。盗賊になるより、戦で爵を取る方が、得だからです。

秦は、西の辺境の弱国から、戦国の最強国へ変わりました。

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第七章 魏を破る

秦が強くなると商鞅は、魏へ目を向けました。

かつて、彼を用いなかった国。彼を捨てた国。そして、秦の領土を奪った国であります。

紀元前三四〇年。商鞅は、秦の軍を率い、魏を攻めました。

魏の将は、公子卬。かつて、商鞅が魏にいた頃の友人でした。

商鞅は、公子卬に手紙を送りました。

「昔、私たちは友だった。今、敵として会うのは悲しい。一度会って、盟を結び酒を酌み交わそう。そうすれば、両国は安らぐ」

公子卬は、喜びました。そして、会見の場へ来ました。

商鞅は、伏兵を伏せていました。公子卬を捕らえました。秦軍は、魏軍を破りました。

魏の恵王は、嘆きました。

「ああ。公叔痤の言葉を聞かなかった。あの男を殺さなかった。だから、この有様だ」

魏は、秦に土地を割きました。商の地を与えました。だから、彼は商鞅と呼ばれます。

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第八章 法を作った男の最期

商鞅は、商の地を与えられ、商君と呼ばれました。彼は、秦の宰相として、国を治めていました。

ですが彼は、多くの敵を作っていました。太子の師を罰した公子虔は、顔に入れ墨を入れられ、八年、外に出ませんでした。その恨みは、深いものでした。

孝公は、死にました。商鞅の後ろ盾だった君主が、消えました。

太子が、即位しました。恵文王であります。

公子虔の一派が、動きました。

「商鞅は、謀反を企てている」

告げ口は、王に届きました。王は、商鞅を捕らえようとしました。

商鞅は、逃げました。国境へ向かいました。宿に泊まろうとしました。

宿の主人は、言いました。

「商君の法で、身分証のない者は、泊められません。私が泊めれば、私が罰されます」

商鞅は、黙りました。自分が作った法が、自分を締め出しました。彼は、ため息をつきました。

「ああ。法の弊害が、ここまで来るとは」

彼は、魏へ逃げようとしました。ですが魏は、彼を許しませんでした。かつて公子卬を騙し、魏軍を破った男。魏は、国境を閉じました。

商鞅は、商の地へ戻りました。自分の領地で、兵を集めました。そして鄭へ攻め、兵を募りました。

秦の軍が、来ました。商鞅は戦い、死にました。その死体は引き裂かれ、市場に晒されました。

『史記』は、記しています。

「商君は、その身を車裂にされ、秦の人、喜ばざるなし」

秦の民は、彼の死を喜びました。法で縛られた民は、彼を憎んでいました。しかし、彼の法は残りました。

第九章 商鞅の法はなぜ残ったのか

商鞅は、死にました。ですが、秦は弱くなりませんでした。むしろ、強くなりました。

なぜか。

彼の法を変える者が、いなかったからです。恵文王は、商鞅を殺しました。ですが、商鞅の法を守りました。彼は、わかっていました。この法が、秦を強くしている。殺すべきは人であり、残すべきは法であります。

ここに、商鞅の思想が、あります。

商鞅は、『商君書』でこう書きました。

「法を行うに、貴賤なし。刑を加えるに、強弱なし」

法は、身分で変わりません。刑は、力で変わりません。太子の師も、罰されます。庶民も功あれば、爵を得ます。これが、秦の強さでありました。

そして、約百年後。秦は六国を滅ぼし、中国を統一しました。始皇帝の秦です。

始皇帝は、商鞅の法を受け継ぎました。中央集権、郡県制、統一、度量衡、法の支配。その根は、商鞅が蒔いたものです。

商鞅は、死にました。ですが、彼の法は天下を制しました。

第十章 商鞅は善人か悪人か

ここで、私たちは、立ち止まります。

商鞅は、善人だったのか。悪人だったのか。

彼の法は、秦を強くしました。ですが、その法は苛烈でありました。軽い罪にも、重い刑を科しました。民は、法を恐れました。友を騙し、敵を破りました。公子卬は、旧友を信じ捕らえられました。

一方で、彼の法は、公平でありました。貴族の子も、功がなければ、爵を得ません。庶民の子も、功あれば爵を得ます。身分の壁を法が壊しました。

司馬遷は、『史記』で商鞅を、こう評しました。

「商君は、その天資刻薄人也」

彼の天性は、刻薄だった、と。ですが、同じ司馬遷がこうも書きました。

「秦の民は富み、国は強くなった」

善人でも、悪人でもありません。彼は、法を作った男でありました。そして、その法が国を変えました。

第十一章 現代に生きる商鞅

商鞅の話は、約二千三百年前の話であります。

ですが、彼の問いは、今も生きています。

法と人の関係。公平と苛烈の関係。国と個人の関係。これらの問いは、古代の秦でも現代の私たちの社会でも、変わりません。

商鞅は、言いました。

「法は、私のものではない。国のものだ」

この言葉は、重い。法は人を縛ります。ですが、法は人を守りもします。誰が法を作るか。誰が法を行うか。誰が法の下にあるか。

商鞅は、法の下に自分もあると、信じていました。宿の主人が彼を締め出した時。彼は、怒りませんでした。法が行われたことを、認めました。そして、自分が作った法によって、死にました。

これは皮肉か。それとも、彼の思想の完成か。

読者、それぞれが考えればいいのではないでしょうか。商鞅は、答えを押しつけません。彼はただ、法を残しました。

終章 木は今も立っている

商鞅が、市場の南門に立てた、三丈の木は、もうありません。

ですが、彼が立てた、もう一つの木は、残りました。法という木です。それは秦に根を下ろし、始皇帝の手で天下に広がりました。そして、約二千年後の私たちの社会にも、その枝は届いています。

法は、誰のためにあるのか。

商鞅は、答えました。

「国のためだ」

ですが国は、誰のためにあるのか。

その問いを残して、商鞅は去りました。紀元前三三八年。彼の死体は、市場に晒されました。ですが、彼の法は生き続けました。

木を動かした農夫は、五十金を得ました。その金はどこへ消えたか。誰も知りません。ですがその日から、秦の民は法を信じました。そして法は、秦を最強に変えました。

商鞅は、死にました。商鞅の法は、死にませんでした。

これが、商鞅という男の物語です。

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