項伯――鴻門の前夜~なぜ劉邦を守ったのか
「項伯」と聞いて、あなたは、何を思い浮かべるでしょうか。
「項羽の叔父」「鴻門の会で、劉邦を守った男」「裏切り者」――いくつもの言葉が、浮かぶでしょう。ですが、そのどれもが本当で、そのどれもが本当ではありません。
紀元前206年、鴻門。項羽の四十万の軍。劉邦の十万の軍。その狭間で、一人の男が動きました。項羽の叔父であり、劉邦の旧友であり、恩人が張良である項伯です。彼はあの夜、劉邦を守りました。
それは、裏切りだったのか。それとも、情だったのか・・・
前夜:項伯の視点で鴻門の会を見ると・・・
この記事では、項伯その人を通して、鴻門の会を描きます。項羽、劉邦、張良、范増、樊噲――それぞれの思惑が、交差する一夜。歴史書には、勝者の声しか、残らないでしょう。ですが、項伯の視点で見れば、あの夜は、まったく違って見えてきます。
あなたが、古代中国史に興味を持たれているなら。あるいは、鴻門の会を学び直したいと、思われているなら。この記事は、あなたのための物語です。項伯の一人称で丁寧に、そして小説のように語ります。
それでは、あの夜へ、参りましょう。
私は、項伯と申します。項纏、字を伯。項羽の叔父にあたる者です。
あの夜――鴻門の宴の最中。私は、項羽の隣に座りながら、前夜のことを、思い出していました。
第一夜――張良のもとへ
あの夜、私は陣を抜け出しました。
「項伯様どちらへ」
衛兵が、そう尋ねました。私は、答えませんでした。馬にまたがりました。夜風が、頬を打ちました。
鴻門の少し手前。劉邦の陣。そこに、張良がいました。私の旧友です。かつて私は、人を殺めました。張良は、私を匿ってくれました。その恩を、私は忘れていません。
「項伯殿。このような夜更けに、どうされました」
張良は、静かにそう言いました。私は言いました。
「張良。明日、お前の主は殺される。項羽は、四十万の軍を構えている。劉邦の十万では、歯が立たない。お前は逃げよ」
張良は、笑いました。
「項伯殿。私が、逃げると思いますか。私は、沛公に仕えています。恩を忘れる男ではありません」
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第二夜――劉邦という男
張良は私を、劉邦のもとへ連れて行きました。
劉邦は、私を見て立ち上がりました。そして、杯を差し出しました。
「項伯どの。お会いできて光栄です。私は、劉邦と申します。どうか、兄貴とお呼びします」
私は、驚きました。劉邦は、私より年上です。それなのに私を、兄貴と呼ぶ。私は言いました。
「沛公。私は、項羽の叔父です。あなたは私の敵です」
劉邦は、笑いました。
「敵。そうですか。でも項伯どの。私はあなたと、敵対したいわけではありません。私は、ただ生きたいだけです。そして、私の民も生きてほしい。それだけです」
私は、その言葉を聞きました。劉邦の目は、嘘をついていませんでした。私は思いました。この男は、項羽とは違う。項羽は、力で人を従わせる。劉邦は、情で人を結ぶ。
私は言いました。
「沛公。私は項羽に、あなたのことを伝えます。あなたが、項羽に敵意がないことを。そして私が、あなたを守ることを」
劉邦は、深く頭を下げました。
「項伯どの。この恩は、忘れません」
第三夜――項羽への進言
私は、項羽のもとへ戻りました。
「叔父上。どこへ行かれていたのですか」
項羽は、そう尋ねました。私は答えました。
「羽よ。私は、劉邦のもとへ行っていた」
項羽の眉が、動きました。
「なぜですか」
私は言いました。
「劉邦は、あなたに敵意はない。彼はただ、関中に入りたいだけだ。そして彼は、あなたに従うつもりだ。もしあなたが、彼を殺せば、諸侯はあなたを恐れる。だが恐れは、忠誠ではない。あなたは、天下を取る男だ。ならば情で取れ」
項羽は、黙りました。そして言いました。
「叔父上。私は、あなたを信じます」
私は、その言葉を聞いて、安心したわけではありませんでした。項羽は若い。二十代の若者です。力はある。だが情に流される。范増は、それを知っています。だから范増は、私を嫌っている。
第四夜――鴻門の宴
鴻門の宴。
私の席は、項羽のすぐ横でした。劉邦は、下座に座っていました。范増は、向かいに座っていました。張良は、劉邦の後ろに控えていました。
范増は項羽に、何度も目配せをしました。項羽は、動きませんでした。范増は、自分の玉玦を、三度掲げました。項羽は、それでも動きませんでした。
私は、項羽の肩に手を置きました。項羽は、私を見ました。私は静かに、首を横に振りました。
范増は、項荘を呼びました。項荘は、剣舞を始めました。項荘の剣は、劉邦の首を狙っていました。項羽の従弟です。項荘は、項羽の意志を汲んで、動いていました。ですが項羽は、まだ決めていませんでした。
項荘の剣が、劉邦の喉に迫ったその時。
「項荘どの。私にも、舞わせていただけませんか」
張良が、そう言いました。そして、項荘の前に立ちはだかったのは、私項伯だった。項羽の叔父。項荘の剣舞を止めるため、私も立ち上がり、舞いました。項荘の剣を、何度も受け止めました。
私は、思いました。この宴は、殺し合いではない。これは、情の勝負だ。項羽が、劉邦を殺すか殺さないか。それは、私が決めることではありません。だが私は、劉邦を守ると決めた。それは、張良への恩。そして、劉邦の目への信。
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第五夜――樊噲という男
そこへ、一人の男が入ってきました。
樊噲。劉邦の護衛です。彼は、盾を持ち剣を携え、堂々と入ってきました。衛兵が、止めようとしました。樊噲は、盾で衛兵をなぎ倒しました。
「沛公の護衛、樊噲と申します。沛公に、酒と肉をお願いいたします」
項羽は、樊噲を見ました。そして言いました。
「壮士よ。酒を与えよ」
樊噲は、酒を一気に飲みました。項羽は、さらに言いました。
「豚の肩肉を与えよ」
樊噲は、それを食べました。項羽は尋ねました。
「壮士よ。もう、一杯どうだ」
樊噲は、答えました。
「私は、死を恐れません。ましてや酒など。沛公はまず関中に入り、財宝を封じ、宮殿を閉ざし、軍を霸上に戻しました。秦の暴政に備えていたのです。それなのにあなたは、讒言を信じ、功臣を殺そうとしている。これは、秦の続きではありませんか」
項羽は、黙りました。私は樊噲の言葉に、心を打たれました。この男は、ただの護衛ではない。劉邦の情を体現している。
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第六夜――劉邦の退出
劉邦は、席を立ちました。
「項伯どの。私、少し厠へ」
私は、うなずきました。劉邦は、張良と樊噲と共に、外へ出ました。私は、項羽の隣に座ったまま、動きませんでした。范増は、劉邦の背中を睨んでいました。
私は、項羽に言いました。
「羽よ。劉邦は逃げる。だがそれは、臆病ではない。彼は、あなたに殺されるのを避けている。そしてあなたは、彼を殺さない。それが、あなたの情だ」
項羽は、答えませんでした。
劉邦は、戻りませんでした。
張良が、戻ってきました。そして、項羽に言いました。
「沛公は、酒に酔い、とてもご挨拶に上がれないと、申しております。私に白璧を、一対託されました。謹んで、大王に献上いたします。そして、玉斗を一対、范将軍に」
項羽は、白璧を受け取りました。そして、床に置きました。范増は、玉斗を受け取りました。そして床に叩きつけ、剣で砕きました。
范増は、言いました。
「ああ若造め。共に、謀るに足りぬ。将軍の天下を奪う者は、必ず沛公だ。我らは今に、彼の虜になるだろう」
私は、その言葉を聞きました。そして思いました。范増は正しい。だが、項羽は聞かない。項羽は、情の男だ。そして私は、その情を支える叔父だ。
第七夜――項伯の選択
宴は、終わりました。
私は、陣に戻りました。夜風が冷たかった。私は思いました。私は、項羽を裏切ったのか。いや私は、項羽を守った。項羽が、劉邦を殺せば、項羽は、暴君になる。暴君は、天下を取れない。だから私は、項羽を守った。それは、裏切りではない。それは情だ。
だが、私は知っていました。劉邦はいつか、項羽を倒す。そしてその時、私はどちらにいるのか。私は、項羽の叔父だ。だが私は、劉邦を守った。私は、どちらの味方なのか。
私は、答えを出せませんでした。私はただ、項羽のそばにいました。そして、項羽が劉邦に敗れるその日まで、私は項羽の叔父であり続けました。
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終夜――項伯という男
私は、項伯。項羽の叔父。劉邦の旧友。張良の恩人。そして鴻門の会で、劉邦を守った男。
歴史は、私を裏切り者と呼びます。ですが私は、思います。私は裏切ったのではない。私は、情を選んだ。項羽の情を。劉邦の情を。そして、私自身の情を。
あなたがもし、鴻門の会を学ぶなら、項羽の力を見てください。范増の知略を見てください。樊噲の忠義を見てください。そして私項伯の選択を、見てください。そこには、歴史の裏側があります。それは、勝者と敗者の物語ではないでしょう。それは、人と人の物語です。
私は項伯。私はあの夜、劉邦を守りました。それは、私の生涯の選択でした。
おわりに――あなたへ
この記事を、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
項伯は、歴史の影に隠れた人物です。ですがその選択は、漢の成立に、深く関わっています。もしあなたが、古代中国史に興味を持たれたなら、次は、項羽と劉邦の人物比較、鴻門の会の地政学的意味、范増の知略とその限界などを、読んでみてください。
歴史は、一人では語れません。項伯のように、影の人物が、歴史を動かします。私項伯の物語は、ここで終わります。ですが、あなたの歴史の旅は、ここから始まります。




