魏の恵王はなぜ孟子に論破されたのか:戦国の雄が夢見た天下と、語られなかった孤独
戦国の世に、ひとりの王がいました。名を、罃(おう)といいます。
のちに、魏の恵王と呼ばれる人物です。彼は魏を、戦国最強の国に押し上げた君主でした。
しかし、後世に残った彼の印象は、どこかかすんでいます。
なぜでしょうか。その答えのひとつが、孟子との問答にあります。
今回は、魏の恵王という人物を、史実に沿って追いかけていきます。読み終わるころには、あなたの中の戦国像が、少し、書き換わっているはずです。
第一章 魏の恵王とは何者か
魏の恵王は、紀元前四〇〇年ごろに、生まれました。父は、武侯。魏の三代目の君主です。恵王は、若くして太子となり、やがて位を継ぎます。
彼が、即位したころ。魏はすでに、戦国七雄のひとつでした。
しかしまだ、最強ではありませんでした。秦、楚、斉、それぞれが力を持っていました。
恵王はそこから、魏を押し上げていきます。彼の治世は、五十年に及びました。これは、戦国の君主としては、異例の長さです。
恵王の治世、五十年。これは何を意味するか。
ひとつは彼が、よほどの力量を持っていたこと。もうひとつは彼が、よほどの苦労をしたこと。長く、王であり続けるというのは、そういうことです。
第二章 戦国最強への道
恵王は、即位すると、すぐに動きます。まず、人材を集めました。その中に、のちの名将、龐涓(ほうけん)がいます。龐涓は、魏の軍を強くしました。
恵王はさらに、都を安邑(あんゆう)から、大梁(だいりょう)へ移します。これは、大きな決断でした。大梁は、交通の要衝にあり、経済の中心になり得る場所でした。
都を移すというのは、国を作り直すことです。 恵王は、それをやりました。
彼の治世、魏はたびたび戦いました。趙、韓、秦、斉。勝つことも負けることも、ありました。しかし総じて、魏は強かった。恵王は魏を、戦国の第一級の国に、押し上げたのです。
あるとき恵王は、家臣にこう言いました。
「私は、天下を取りたい」
家臣は、答えました。
「王よ。天下は、そう簡単には取れません」
恵王は、少し笑って、言いました。
「だから、取りたいのだ」
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第三章 孟子との出会い
恵王の治世の後半。ひとりの旅人が、大梁にやってきます。名を孟軻(もうか)。のちに、孟子と呼ばれる人物です。
孟子は、孔子の孫弟子にあたります。彼は諸国を巡り、自分の思想を、説いていました。そして、恵王のもとにも来たのです。
この出会いが、恵王の後世の評価を決めました。
『孟子』という書物の冒頭。そこに、ふたりの問答が残っています。この問答が、あまりにも有名なので、恵王はいまでも、孟子に論破された王として記憶されます。
しかし、本当にそうだったのか。ここから、その問答を、丁寧に読み直します。
⇒孔子と三国志!儒教思想、周時代意味、弟子子孫人生、名言民族も解説
第四章 あの問答を読み直す
『孟子』の最初の一節。恵王が、孟子に言います。
「叟(そう)、遠方より来たる。また、我が国を利する、あらんか」
叟というのは、老人という意味です。つまり、恵王はこう言ったのです。「老先生、よく、はるばる来てくれた。わが国を利する、何かあるか」
これに対して、孟子は答えました。
「王、なんぞ、利を言うや。ただ、仁義のみあるのみ」
これが、あの有名なやり取りです。恵王が、利を尋ねた。孟子が、仁義を説いた。後世の人はこれを、恵王の負けと、読みます。
しかし、待ってください。恵王は王です。国を預かる立場です。利を尋ねるのは、当然ではないでしょうか。国家のトップが、国を利する方法を問う。これは、責められる、ことでしょうか。
孟子の答えは、正しい。しかし、恵王の問いも正しい。
ここに、この問答の本当の面白さがあります。ふたりは、噛み合っていないのではありません。立っている土台が、違うのです。
恵王は、現実の国を見ています。孟子は、理想の国を見ています。どちらも本気でした。だからこの問答は、いまでも、読む者の心に残ります。
第五章 恵王の孤独
この問答のあと。恵王は、孟子を用いませんでした。孟子も魏を去ります。ふたりは交わらず別れました。
なぜ恵王は、孟子を用いなかったのか。理由は、いくつか考えられます。
ひとつは、孟子の思想が現実離れしていたこと。仁義で国は守れません。戦国の世は力の時代でした。
もうひとつは、恵王自身の限界です。彼は戦国の君主でした。戦国の君主は利で動きます。孟子の仁義は、彼の土台に合いませんでした。
しかし、私は思います。恵王は孟子の言葉を、心のどこかで覚えていたのではないか。
王は、孤独です。 国を預かる者は、誰にも本音を言えません。孟子は、その恵王に正面からものを言った、数少ない人物でした。
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第六章 なぜ恵王は忘れられたのか
恵王は、魏を強くしました。しかし、後世の評価は低い。なぜでしょうか。
理由は、三つあります。
第一に、孟子の存在です。 『孟子』という書物が、広く読まれた。その冒頭に、恵王が出てくる。だから恵王は、孟子の引き立て役として記憶されました。
第二に、魏のその後です。 恵王の死後、魏は衰えます。秦に押され、やがて滅びました。強い国を作った王でも、国が滅べば、評価は下がります。
第三に、記録の偏りです。 歴史は、勝者あるいは、思想家の視点で書かれます。恵王の功績を、正面から称える記録は少ない。
しかし、史実は違います。 恵王は、五十年魏を治めました。その間魏は、戦国の第一級国であり続けました。これは事実です。
第七章 恵王から学べること
魏の恵王は、孟子に論破された王でしょうか。私は、そうは思いません。彼は、戦国の現実を生きた王でした。孟子は、理想を説いた。恵王は、現実を生きた。
どちらも、その時代の本質を映しています。
恵王を知ることは、戦国をもう一段、深く読むことです。そして、理想と現実の関係を、考えることでもあります。
次に、『孟子』を開くとき。どうか、恵王の側からも読んでみてください。
そこに、孟子とは違う、もうひとりの人物が見えてきます。国を預かり、理想と現実の間で揺れ続けた、ひとりの王の姿が。
補足:恵王の時代をもう少し詳しく
恵王の治世を、もう少し見ておきます。彼は、即位当初、魏を大きくしました。
しかし晩年、魏は苦しくなります。とくに、秦の台頭が大きかった。
秦は、商鞅(しょうおう)の変法で、強くなりました。恵王は、その秦と戦いました。勝つこともありましたが、押されることも多くなりました。
国というのは、一代で強くしても、一代で弱くなります。 恵王はそれを、身で知った王でした。
彼の治世の後半。魏は徐々に、守勢に入ります。かつての勢いは、ありません。
しかし、恵王は国を非常に長い期間保ちました。これは、簡単なことではありません。
⇒商鞅!法治主義、名言法家、改革変法、読み方死因、秦孝公李斯も解説
読者のあなたへ
あなたは、いま何かを守っていますか。家族、仕事、仲間、自分の、居場所。
それはもしかしたら、恵王が、魏を守ったのと、同じことかもしれません。
誰にも、褒められなくても。誰にも、気づかれなくても。守り続ける。
それは、素晴らしいことです。
恵王は、派手な英雄ではありませんでした。
しかし王であり続けました。その事実だけで、彼の評価は変わるはずです。
関連重要語句からもう少し広げる
恵王を、調べていくといくつかの重要語句に、出会います。孟子、仁義、利、戦国七雄、大梁、安邑、龐涓、商鞅、秦の台頭。
これらはすべて、つながっています。
恵王は、ひとりで生きたのではありません。彼の周りに、人材がいました。敵がいました。思想家がいました。彼はその真ん中で、王を務めました。
ひとりの王の生涯は、その時代の縮図です。
恵王を知ることは、戦国の全体を知ることにつながります。


